孤独死と日本人の精神構造

(整期优先)网络出版时间:2016-05-15
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孤独死と日本人の精神構造

李淑娜

云南大学滇池学院云南昆明650500

要旨:都市化に従って、日本人の精神構造も変わってきた。昔、共同体によって維持されてきた絆が崩れ、人々は“自由”になった。しかし、同時に、神仏との調和が失って、周りとのつながりが薄くなり、孤独と向かいあっている。「孤独死」という切ない言葉も身近に感じるようになってきた。「孤独死」の問題は難しくて複雑であるが、根本的には日本人の自己の不確実感に深く繋がっていると思う。

キーワード:孤独死神精神迷惑

はじめに

2005年9月24日にNHKスペシャルで千葉県松戸市における「孤独死」に関する問題が放映された。その番組によって日本社会の人々は孤独死に高い関心を持つようになってきた。特に、2011年3月11日に東日本大地震が発生して以来「孤独死」に対する心配が高まっている。日本内閣府の統計「1」によると、震災死亡者の中で、2013年3月まで60歳以上の高齢者は10,360人で死亡者の66.1%を占めている。震災で亡くなった高齢者の場合、周りに助けってくれる人がいなく、自分で逃げようとしても逃げられないケースが多かったことが分かる。このような事件をきっかけに、約4割ぐらいの日本の人々は「孤独死」を身近な問題だと考えるようだ。「孤独死」は超高齢社会に入った日本社会の一面を映していると言える。「孤独死」に対する社会的検討は決して少なくないが、本論は日本人の精神的構造と「孤独死」のつながりを検討してみたいと思う。

一、孤独死とは

「孤独死」についていろいろな定義がある。本論では、単身の居住者であり、誰にも看取られることなく、当人の住居内などで死亡し、死亡から相当の時間経過後に発見されたことを指す。公的には、「孤立死」とも呼ばれている。孤独に耐えなく、自宅で自殺し、しばらく経って発見されることを「孤独死」と認めない。そして、病院や介護所で亡くなり、周りに誰かいる、或いはすぐに発見されるケースも「孤独死」と見なされない。平成27年版高齢者社会白書に以下のデータがある。

※注:都市再生機構が運営管理する賃貸住宅で、「団地内で発生した死亡事故のうち、病死又は変死の一態様で、死亡時に単身居住している賃借人が、誰にも看取られることなく賃貸住宅内で死亡し、かつ相当期間(1週間を超えて)発見されなかった事故(ただし、家族た知人等による見守りが日常的になされていたことが明らかな場合、自殺の場合及び他殺の場合は除く。)」を集計したもの。

この表から分かるように、「孤独死」の人数は平成20年以来、25年に少々下がった以外、年々延びている。そして、死亡する人の中に、高齢者が高い比率を占めている。しかし、注意すべきなのは、65歳未満の人もいることである。つまり、高齢者以外の人も「孤独死」の境地に陥る恐れのあることである。「孤独死」になる可能性の高い人は以下のようなタイプが考えられる:

1、高齢者である。特に一人暮らしの高齢者。

2、独身者である。未婚者、配偶と死別した人。

3、定年退職または失業により職業を持たない人。

4、慢性病を持つ人。

いずれのタイプもアパートなどの賃貸住宅で生活する人なら、周りの人とあまりコミュニケーションが取らないから、さらに「孤独死」に繋がる可能性を高める。このことは、最近流行っている「無縁社会」から理解できると思う。「孤独死」になる原因は様々である。超高齢化社会、若い人の非婚化と晩婚化、社会の無縁化などがあげられる。これはほとんど日本の社会的な面から検討した外面的で、具体的な原因である。本論はこのような社会を創り上げた日本人の精神的構造から孤独死に導く原因を分析してみたいと思う。

二、日本人の精神構造

日本は和の精神で建てられると言われる。日本の先祖たちは弥生時代から数えきれない戦乱と戦闘を経て、日本と言う国を建てられた。しかし、いくら戦争をしても、周りは海に囲まれているので、島から逃げることができなかった。そして、農耕社会では、人の力を借りなかったら、生産は立たないのである。日本人は狭い島国で生活していくために、「和」を保つことは何よりも大切なのであると深く思い知らされた。言い換えると、日本人は自分を一人の人間と考えるよりも、どれかの集団の一員として考えるのは伝統的で、普通である。己を抑制し、分に安じ、和を大切にして、生活していく。だから、自分のすることは集団に影響を及ぼすし、下手にすれば世間に迷惑をかけると考える。人に迷惑を掛けるのが嫌なことである。日本人のマナーの大部分は他人を不快にさせない規範である。公共の場で大声で話すこと、禁煙の場所にてタバコを吸うこと、飼い犬の糞を片付けないこと、行列の割り込みをすること、いたずら電話やメールなどの迷惑行為=マナー違反と言えるだろう。日本で自殺する人の中に、人に迷惑を掛けないようなところや方法を選んで死ぬ人がほとんどである。それに、部屋や仕事を片付けて、「自殺自体は迷惑だが、他殺や不審死に思われないように、自分の意志で死ぬ」と書き残すことが普通である。極端に言えば、死ぬ時も人のことを考え、迷惑掛けないように気を使う。人を褒める時も、「気がきく」というのは、高い評価に違いない。このように、「迷惑文化」は日本人の精神の底に潜んでいる。

それに、日本人の宗教心も日本人の精神構造と密接な関係を持っている。日本人は意識しないまま、宗教と出会う。生まれたら、宮参り。新年を迎えたら、門松。盆になったら、墓参り。結婚するなら、教堂か神社。何か人生の節目にあったら取り敢えず、お守りを大切にする。願望を祈るときに、手を合わせて祈る。祭りによって神と共に楽しむ。このように、日本人は特定の教団・宗派に入信し、教義を学ぼうということを好まないが、自然宗教の信者であるとされる。広辞苑に自然宗教とは「宗教の発達過程において、初期の自然発生的・原始的宗教の総称。主としてアニミズム・呪物崇拝・自然崇拝・多神教など。自然的宗教。」と解釈してある。日本に八百万「無限」の神がいらっしゃる。つまり、至る所に神様がいらっしゃるのである。神も、仏も、イエスも、本質的には同じ、我々人間を守ってくれる存在であると思われている。このように心の底に神の存在を信じる日本人は目に見えない神に畏怖、畏敬の念を抱いている。このような宗教的情操は倫理的な指導力を強く持っている。「いつも神様に見られている」、「御先祖様にたいして合わせる顔がない」、「悪いことをすれば、罪になる。現世か来世に報われる。」というよな意識を持っている。

三、孤独死と日本人の精神構造の変容

以上述べたように、日本人は和を大切にし、人に迷惑をかけることが嫌であるし、神様に守ってもらいたい。これは根本的に言えば、南博の「自我の不確実感」という見解に賛成するのである。南博は「日本人の精神構造」という文章に、こう書いてある,「日本人の自我不確実感には、三つの側面がある。一つは消極的な弱気、内気、気兼ね、諦めなどと形容される、退任関係における自己主張の弱さ、自信のなさ、劣等感などである。…もうひとつの面で、他人に対する思いやり、優しさ、親切さなど退任関係の調和を心がける傾向にも繋がる。さらに、…自我の不確実感の克服のために研究心、向上心、仕事熱心などの傾向が生まれる。」言い換えれば、自然災害の多い日本列島に生きていくには、自我はあまりにも弱くて、人や自然との関係を円滑に営まなければ、ダメである。そして、この弱さを克服することは立身出世する努力をしなければならない。そして、科学技術身につけなかった日本の祖先たちは神に頼るしかなかった。このような「自我の不確実感」は「孤独死」に繋がるのである。

まず、孤独死の人に親族がいる人は少なくない。しかし、それでも、孤独死になってしまった。親族の人が冷たいと責める人がいるかもしれない。実は、孤独死になった本人が一人で頑張って生きたい、親族に特に子供に迷惑を掛けたくないと思っているから、孤独死になったケースも少なくない。こうして、日本の「和」は他人を邪魔しない「和」で、「迷惑文化」・他人への思いやりで表す「和」である。大抵の日本人は病気か年齢か何等かの原因で、自分はもう人にとっては迷惑な存在であると思う。人を頼ったりしたくないから、一人で生活することにする。孤独死になったほとんどの人は社会や周りの人に助けを求めななかったのである。結局、孤独死に繋がる。

また、昔の日本は家族の血縁或いは地方共同体などによって絆を結んでいた。しかし、向上心の強い日本人は戦後、立身出世しようと家族を離れ、故郷と別れ、一人の生活を選んだ。都会化に連れて、人を結んだ絆が失い、人々は孤立しがちな現代社会にあう。子供は成長してまた自分の生活を追うから、結局親たちが残される。住むところの隣家とあまり関わりがない。退職或いは失業になったら、別々に住む会社の同僚との絆も薄くなってくる。親友がいても、近いところに生活していないか年取って移動しにくいかなどの原因で連絡が少なくなる。共同体が遠くなっていく中、人は共同体の庇護から切り離されて、直に孤独と向かいあい、結局、孤独死に繋がる。

それに、科学技術の発展に連れて、勤勉な日本人は世界に注目される成果をあげた。しかし、それと同時に、日本人の精神構造が変容してしまう。人々は農村を基盤にした伝統的な生活の共同体が解体し、神仏との調和の中にあった日本人の生活が崩れ始めた。この中、宗教的情操も崩れていく。それによって建てられた論理的指導力は弱くなっていく。昔は親孝行しないと、神様に罰される、先祖様に会う顔がないとか、心理的な畏怖感を持っていた。しかし、現代では、神様は科学技術によって“行方不明”な存在であり、何をしても平気にいられるようになった。親が一人で病気になっても、一人で死んでも、当たり前のことで、忙しい現代人には申し訳ない、切ない気持ちの出る余裕がない。

劣等感を持っていた日本人たちは頑張って豊かな日本を創り上げた。日本という大きな集団のために自分の一生を尽くした。しかし、現代社会になって、西洋の自由主義、個人主義が圧倒的に押し込んできた。豊かになった日本人は自分なりに生きたくなる。周りの人に迷惑を掛けたくないし、迷惑されることが嫌である。これは責任を持ちたくないと言い換えるだろう。だから、結婚しない;結婚しても子どもを産まない;子供を産んでも我慢して折り合って一生に生活したくない;自分の思うままに生活したいから、苦労して忠実に一つの仕事をするのはつまらない(派遣、ニート、パートなどに繋がる)…厳しく言えば、人のために責任を持ちたくないから、自分を孤独な道に追い込んでしまったのである。

終わりに

日本社会の孤独死問題は日本人の心理構造とその変遷に深く関わっている。孤独死の問題を解決するには、国や社会が積極的に対応することは大変重要であるが、このような心理構造から解き明かすことも大切だと思う。それに、孤独死は日本の問題だけでなく、現代文明社会の共通問題になっている。近年来、我々中国にも「空の巣の老人」が「孤独死」になったニュースが耳にすることがある。それで、今度は孤独死をテーマにして研究してみたが、まだいろいろな問題が残っているので、これからももっと研究していくつもりである。

参考文献:

「1」内閣府.平成27年版高齢社会白書[EB/OL].http://www.cajcd.edu.cn/pub/wml.html,2015-02-16/2015-5-18.

「2」新村出.広辞苑第6版[M].東京:岩波書店,2007.

「3」新日本製鐵株式会社広報企画室.日本の心[M].横浜:丸善株式会社,1987.

作者简介:李淑娜(1983.4),女,云南云县,云南大学滇池学院教师。研究方向:日本社会文化、文学。